今回は、なぜ勾留延長が却下され、その不服申し立て(準抗告)まで棄却されたのかということについて検討してみようと思います。
報道によると準抗告棄却の理由は、1回目の勾留事実(2010年から14年の虚偽記載罪)と2回目の勾留事実(2015年から2017年の虚偽記載罪)は事業年度の連続する一連の事案であるという点のようです。
要するに1回目の勾留事実も2回目の勾留事実も一連のものであり、事情や証拠が共通していて、新規の事情がほとんどないという指摘だと思われます。
そして、1回目の勾留事実は既に起訴されているので、それとほぼ同じ内容の2回目の勾留事実についても捜査は尽きており、勾留延長すべき「やむを得ない事情」がないということでしょう。
いったん報酬に関する記載の方法を議論し、実行したのであれば、以後は前年を踏襲するだけですので、たいした話し合いはなく淡々と実行するのが普通だと思います。
もちろん、ある年度からやり方を変えたとか、関与する人が異動したので一から議論し直したというような、それまでと異なる新たな事情があれば、捜査によってその点の事実を解明する必要が生じます。
しかし、今回の場合、検察側の主張や証拠には、そのような新規の事情がほぼなかったのだろうと推測されます。
ではなぜ2回目の事実につき逮捕と勾留が認められたのか、という疑問が出てきますが、その点はゴーン氏が何を供述するか確定できなかったからだと思われます。検察が新規の事情はないと思っていても、ゴーン氏側が「この年度からはこういうことがあって・・・・」と新たな供述をするかもしれません。新たな供述が出てくれば、その真偽を明らかにするための捜査が必要となりますし、新たな罪証隠滅の可能性も出てくることになります。
そして、逮捕状請求の時点や勾留請求の時点では十分な取調べができていないため、新たな供述が出てくる可能性を否定できず、つまるところ罪証隠滅のおそれが否定しきれませんから、逮捕や勾留が認められたのはやむを得ない判断だったと思います。
しかし、さすがに勾留して10日間も毎日取調べをしたにもかかわらずそこで新たな供述が出てこないのであれば、今後も新たな供述が出てくる可能性はほぼないでしょう。
今回ゴーン氏も新たな供述はしなかったと思われます。
そうすると、捜査機関が新たになすべき捜査などないはずで、勾留延長の条件である「やむを得ない事情」が認められないと裁判官が判断したのは、ある意味当然かもしれません。
さて、ここまでは1回目の勾留事実と共通の部分については捜査の必要がないという前提で話を進めてきました。
それは1回目の勾留事実について既に起訴がされていたからです。
起訴するということは、有罪にする十分な証拠を集めたということであり、捜査は尽きているということです。
以前のブログで、処分保留で再逮捕・再勾留するのではなく、起訴した上で再逮捕・再勾留するのは珍しい、と述べました。
ここからは空想の域を出ない私見ですが、もし、今回も1回目の勾留事実について起訴していなければ、勾留延長についても別の判断になったかもしれません。人権の観点からは無茶苦茶な話ですが。
2回目の勾留事実が1回目のものとほぼ同じだとしても、1回目の勾留事実について十分な証拠がなく、まだ起訴する判断ができない状態であれば、ほぼ同じ事実である2回目の勾留事実についても十分な証拠収集ができていないことになります。
ですから、2回目の勾留事実について引き続き身柄拘束して捜査を行う「やむを得ない事情」があり、結果勾留延長が認められるという判断になったかもしれないのです。
しかも、今回は1回目の勾留が起訴したことによって継続しており(処分保留だと1回目の勾留は打ち切りになります)、その保釈が認められるまで(即日認められることはほぼありません)は2回目の勾留が途切れてもゴーン氏の身柄拘束が続きます。
ということは、前回述べたような勾留延長却下というゼロ回答であっても、その日のうちに起訴しなければならないというような状況には陥りません。
延長期間を削るのではなく、延長却下でも問題ないと裁判官が判断しやすい状況だったと言えるかもしれません。
このように、勾留延長却下という裁判官の異例の判断には、検察が1回目の勾留の事実について処分保留せずに起訴したことが背景にあったように思えるわけです。
処分保留せずに起訴して再逮捕するのは、検察のフェアな判断であるはずです。
しかし、仮にそのことによって勾留延長が認められないのであれば、検察としては起訴せず処分保留して再逮捕再勾留したほうが良い、と考えるかもしれません。
この点は、大きな皮肉であって、身柄拘束に関する日本の制度に矛盾があることを示唆しているようにも思えます。