医師の被告人が、病院において女性患者の胸をなめたとして起訴された事件につき、先日無罪判決が下されました。
検察側は、被害女性の供述を中心に、右胸から①医師と同一のDNA型が検出されたこと、②アミラーゼ鑑定が陽性であったことから、女性の供述が信用できると主張し、弁護側は、女性の供述が麻酔によるせん妄状態のものである、鑑定には問題があるなどと主張したようです。
わいせつ事件では被害者の供述が核心的証拠になることが多いのですが、常にその供述の信用性が問題になります。しかも、今回は女性がせん妄状態にあってもおかしくない状況であったため、その信用性はより慎重に判断しなければならず、客観的証拠が非常に重要であったといえます。
そんな中でも、客観的証拠として最大のポイントは鑑定だったと思います。女性の右胸から医師の唾液が検出され、舐めた以外に付着する機会がなかったのならば、被害があったことはまず間違いないと言えるからです。
裁判では、検出されたDNAの量が多量だったことが争点になったようで、DNA型鑑定を行った科捜研職員が多量のDNAが検出されたと証言したものの、他方で、そのメモを適切に作成していなかったことや資料を廃棄したことなどが問題とされました。
詳細な事情が分かりませんが、個人的にはDNAの量はさほど重要でなく、それよりも「DNAが他の機会に付着する可能性」が問題だったと思います。
DNAは血液や皮膚片、毛根などに含まれていますが、鑑定では何に由来するDNAなのかは(精子以外は)わかりません。唾液それ自体にはDNAはありませんが、ふつう口の中の細胞が唾液に入っていますのでそのDNAが検出されます。ただ、鑑定ではDNAが出てもそれが唾液(に含まれる細胞)によるものなのか、由来は分からないのです。
前述のように検察側はDNAの量について立証を試みたようですが、何に由来するかわからないものについて量を議論することにどれだけ重要な意味があったかは疑問です。DNAの量について立証するのはあまり一般的とは思えませんし、例えば、「この量は皮膚片だとしたら多いが、血液だとしたら少ない」ということもあり得るのではないかと思います。
さて、捜査機関がアミラーゼ鑑定を行ったのは、DNAが何に由来するかわからず、DNAが検出されたからといって唾液等が含まれているかは分からないからです。
そこで、アミラーゼ鑑定の結果が陽性ならば、唾液等のアミラーゼが含まれる体液が付着していたことが分かります。
ただし、誰の唾液等に由来するのかはわかりません。
結局、鑑定から分かったことは①医師のDNAの含まれる何かが女性の右胸に付着していた、②女性の右胸に誰のものか分からない唾液等が付着していた、ことだけです。
唾液等のほかに皮膚片とか様々なものが混入している可能性がありますから、2つの鑑定から「医師の唾液が女性の右胸に付着していた」と断言することはできません。
そして、②については女性自身やその他の人の唾液等に由来する可能性もあると思いますので、より重要なのは①と思います(もちろん②も女性の証言を裏付ける意味はありますが、強力な証拠ではないという意味です)。
ふつう、女性の胸は下着と衣服で隠されており、赤の他人の男性のDNAが(それが何に由来するにせよ)付着することは通常考えられません。
したがって、通常のわいせつ事案では①はかなり有力な証拠となり得ます。
しかし、今回は医師が女性の胸を手術した医師であるため、わいせつ行為以外の理由でDNAが付着する可能性があり、弁護側はその点について具体的な主張をしていました。手術の時や触診の時に付着する可能性があるという主張だったようです。
この点に関する検察側の反論は報道を見てもよく分かりませんでしたが、無罪になったということは有効な反論ができなかったということでしょう。
現在のDNA型鑑定は以前とは比べものにならないほど精度が高くなっていますから、他人と取り違う可能性はほぼないと言ってよいと思います。
ですから、DNAが検出された場合に最も重要になる点は、「犯行時以外に付着する可能性があるか」という点です。
本人が意図しないところでDNAを含む何かが付着する可能性もありますから、ありとあらゆる可能性を想定して、それを否定できなければ犯行時に付着したと判断するのは危険です。
このことは指紋の場合も同様です。以前、コンビニ強盗の事案で、自動ドアから検出された指紋を頼りにある人物を逮捕・起訴したものの、事件以前にこの人物がコンビニを訪れており、その際に自動ドアに触れたということが判明したため、無罪になった事案がありました。
DNA型鑑定は非常に有効な捜査手法ですが、それに頼り過ぎるのは危険です。
他の機会にDNAが付着した可能性を検討する必要がありますし、いったんDNA型鑑定を脇に置いておいて、通常の事件と同様にあらゆる証拠を集めることが重要なのです。